一宮市三岸節子記念美術館
今日の日中は、急に暑くなりました。
青葉、若葉がグングンと伸びています、、とても
清々しい季節です。
このblogの5回目の投稿に、三岸節子さんをご存知でしょうか?、、と投稿しましたが、、存在のみの紹介で詳しく書く事をしていませんでした。
初めて、三岸節子さんの作品と三岸節子さんの生涯を知って大変に驚きました。
凄まじいエネルギーの人でした。そのおかげをいただき、私もまだまだこれからだ。
と頑張る気持ちが湧いてきました。
その感動が、パソコン教室でのパワーポイントに
三岸節子さんの生涯を作成したのです。
先日の整理で、その時の資料が現れたので、
あらためて 紹介させていただきます。
三岸節子さんの生涯
1905年(明治38年)1月3日、第6子、四女。
生地は木曽川に近く、江戸時代中山道の脇往還である美濃路の起宿があり、参勤交代する大名、朝鮮通信使、龍騎や使節などが往来し、多くの文化人が時代の新しい息吹をもたらした街であった。
バス停に「三岸節子記念美術館前」がある。
とても気になり、引っ越し先をこの地に決める。
裕福な家庭で育った節子であるが、幼少の頃より
先天性股関節脱臼を患い、何度となく名古屋の医専で手術を試みている。
しかし、症状は改善されずつらい幼少期を送ることとなった。
大きな旧家の数々の集まりの際には、女工の寄宿舎に追いやられるか、敷地にある土蔵で一人本を読み過ごすことが多かったという。
世間体を気にしてのことではあるが、このとき培われた反骨精神は
のちの女性洋画家三岸節子が誕生する大きな礎となっている。
隆盛を誇っていた実家の吉田家が1920年、第一次世界大戦後の恐慌のあおりを受け、倒産してしまう。
築き上げたものを失い家の名誉まで無くした節子は
『一家の苦しみを何者かになってとりかえそう。』
と強く決意する?
女性の油絵画家が皆無に等しい当時でありながら、
固くその道を決意するのも節子の反骨精神と自由への渇望からであった。16歳の夏に単身上京する。
1922年、若手画家、三岸好太郎と出会う。
1924年、新婚生活を始める。
1925年、『自画像』で第3回春陽会展に初入選。
1934年、好太郎、突然にこの世を去る。
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女性画家として、新しい出発。
1941年、太平洋戦争勃発、、、節子は疎開もせず、
鷺宮のアトリエで制作に励むことを生きる張りとし
湧き上がる力を込めた絵筆を終戦まで折ることはなかった。
1945年、敗戦を迎えた日本で、節子は銀座にある日動画廊で戦後初となる個展を早くも開いている。
戦争中に書いた静物画を出品し、全て完売となった。
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1952年、戦後初の海外展となる第一回サンパウロ、ビエンナーレに46作家の一人として選ばれる壮挙を果たす。
、、「女性画家の地位向上」を成し遂げたと感じた節子は、ひとつの役目を迎えたとして女流画家協会を去っている。
絵を描きたい
1954年、パリ、カーニャ、スペイン、イタリアを旅行。ヨーロッパ旅行で刺激を受け、絵を描く事だけに集中したい節子の思いをつのらせ、孤独な環境へ身をおくことを決断させる。
1957年頃から、、軽井沢の山荘にこもり制作。
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1964年、体調もすぐれ始めた節子は、神奈川県の大磯で一人暮らしを始める。
軽井沢での内面をえぐる様なサドスティックな状態はおさまり、新しい節子が生まれていた。
『私は大磯に移り住んで太陽画家となった。
風景画への開眼はここで初めて可能となり、静物に、花に、太陽が必ず登場する。
太陽こそ生命。エネルギーの源泉。活力源。』
風景画家として認められ、絵も画商がつき売れていく中で、、今一度好太郎の作品を評価したいと考える。好太郎の絵を買い取るため節子は自分の絵を売り、時には交換し110数点の好太郎作品を再び手元に取り戻した。
そしてこの作品を全て、好太郎の生まれ故郷である北海道を訪れ寄付を申し出る。それにより、北海道立三岸好太郎美術館開館となる。
節子の努力が実り、札幌の美術館に好太郎の名前が見事によみがえったのを機に節子は本格的に風景画家としての道を歩むことを決めている。
以前、初渡仏の折に見た異国の風景が忘れられず、
再び黄太郎一家とともに南仏カーニュへ。この時、節子さん63歳。
1989年、20年に近い滞在を終え、帰国。
この年、10月、尾西市制35周年名誉市民三岸節子新作展が尾西市歴史民俗資料館で開催された。
この際「ふるさとで語る」と題した三岸節子講演会が市民会館で開催されるが、講演
末尾に『私は決してこの作品に満足しておりません。まだ私、これからだと思っております。
これから、まあ、健康の許す限り、絵を描きたいと思っております。
どうか皆様、私の絵を、今後どうぞご期待くださいませ』と語った。
聴講し感銘を受けた人々により約3900人の署名が集まり、、、三岸節子記念美術館建設が進められることとなる。
100号の大作、《さいたさいたさくらがさいた》
1998年 三岸節子記念美術館が開館し、開館式と同時に『三岸節子--生きた、描いた、愛した--展』を開催。また、12月12日には三岸節子本人の来館が叶った。
何者かになり、再び戻ると決意し故郷を出てから
77年の歳月が経っていた。
1999年、4月18日未明、急性循環不全のため
94歳の生涯を、閉じた。
白い花が大好きだった節子さんへ
満開のテリハノイバラ
三岸節子収蔵作品集より抜粋させていただきました